新大工町は、出来大工町の南東、中島川右岸にある長崎外町の一ヶ町で、江戸時代は陸手に属しました。長崎港に注ぐ中島川下流右岸、同川に堂門川が合流する付近に位置します。町並はやや南北軸に形成され、西は馬町、出来大工町に、南は伊勢町、北は片淵に隣接し、南東は桜馬場に通じています。
町名は本大工町(現在の長崎市公会堂付近)より遅れて町が出来たことによるとされ,寛永長崎港図に「新大工町」とあります。大工は、町の発展に必要不可欠な職業であり、なおかつ広い土地が必要であるため、長崎の町の広がりとともに、当時の長崎の一番外側に出来た町と思われます。
歴史と共に町は様々な変化を遂げてきました。昭和56年に町の一部が伊勢町となり、出来大工町・伊勢町・片淵町1~3丁目の各一部を編入し、今の町域となりました。現在は、長崎市東部の中心として、生鮮食料品を扱う市場やデパートなどがひしめく商店街が繁栄しており、活気あふれる町として発展を続けています。
【参考文献】
角川日本地名大辞典 42長崎県(昭和62年角川書店発行)
長崎県の地名 日本歴史地名大系43(平成13年平凡社発行)
新大工町はくんちの踊町ですが、その趣向は奈良の春日大社の意匠と関連深いものです。
なお、記録が残る明治期以降では、中止となった年を除き、欠かさず奉納をさせて頂いていることを誇りとしています。
飾:紅葉に灯籠(春日燈籠)
輪:しめ縄
垂:正絹両練固地織薄茶地固流紋に三社の御紋金糸縫
飾の春日燈籠は、火袋の形状から古式を保っており、しかもこれほど大型のものは他に例を見ないとのことです。また、明治期は、紅葉の枝から更にもう一基、釣り灯篭がありました。紅葉は蝋引きで、金色の燈籠とともに踊馬場で朝日を浴びて、燦然と輝きます。
また、垂も明治期には、猩々緋に春日野の景の織り出しであったという記録もあります。
昭和26年までは、町内子供連中による勇ましい剣舞が町の伝統でした。その後久しく途絶えていましたが、平成6年、剣を扇に、男の子を女性に変え、装いも新たに詩舞を出場し、現在まで続いています。歴史はまだ新しいですが、純白の衣装とともに凛と舞う姿が大喝采を浴び、新大工町の奉納踊には欠かせないものになりました。「祝賀の詞」を晴れやかに奉納した後の所望踊では、一転勇ましく「坂本龍馬を想う」を舞い納めます。また、吟士も専門家だけでなく町内有志も日頃から研鑽に励んでおります。
町の名に因み、大工の腕の見せどころである華麗な装飾を施した曳壇尻を長年奉納し続けています。以前は数か町出場した記録がある壇尻も、今では我が町のみの出し物となりました。
現在の壇尻は昭和61年(1986)の新調、それまでの白木を漆塗りに変え、飾には紅葉、松、春日鳥居に白鹿一番をのせています。屋根飾りには松森神社にある職人尽しの彫刻を模した大工職人尽の彫刻があり、横飾り、土呂飾りの紅葉に流水、神鹿の彫刻も見ものです。
船との大きな違いは、舳先がなく、四角形であること。そのため、非常に回しにくいのですが、踊馬場では5回転半の大技に果敢に挑み、心意気を存分に示します。また、伝統に則り、右回ししか致しません。長采も白一色で、白采(しらざや)と呼びます。
更には船頭がいない代わりに、大太鼓、大鉦、小鉦、〆太鼓で構成する囃子方が、「式打ち」と呼ばれるお囃子の奉納を行います。 平成20年には春日大社の大神様の神話に因み、鹿を白鹿にするなど、伝統を大切にしながらも常に進化を続けています。
町名は本大工町(現在の長崎市公会堂付近)より遅れて町が出来たことによるとされ,寛永長崎港図に「新大工町」とあります。大工は、町の発展に必要不可欠な職業であり、なおかつ広い土地が必要であるため、長崎の町の広がりとともに、当時の長崎の一番外側に出来た町と思われます。
歴史と共に町は様々な変化を遂げてきました。昭和56年に町の一部が伊勢町となり、出来大工町・伊勢町・片淵町1~3丁目の各一部を編入し、今の町域となりました。現在は、長崎市東部の中心として、生鮮食料品を扱う市場やデパートなどがひしめく商店街が繁栄しており、活気あふれる町として発展を続けています。
【参考文献】
角川日本地名大辞典 42長崎県(昭和62年角川書店発行)
長崎県の地名 日本歴史地名大系43(平成13年平凡社発行)
新大工町はくんちの踊町ですが、その趣向は奈良の春日大社の意匠と関連深いものです。
なお、記録が残る明治期以降では、中止となった年を除き、欠かさず奉納をさせて頂いていることを誇りとしています。
飾:紅葉に灯籠(春日燈籠)
輪:しめ縄
垂:正絹両練固地織薄茶地固流紋に三社の御紋金糸縫
飾の春日燈籠は、火袋の形状から古式を保っており、しかもこれほど大型のものは他に例を見ないとのことです。また、明治期は、紅葉の枝から更にもう一基、釣り灯篭がありました。紅葉は蝋引きで、金色の燈籠とともに踊馬場で朝日を浴びて、燦然と輝きます。
また、垂も明治期には、猩々緋に春日野の景の織り出しであったという記録もあります。
昭和26年までは、町内子供連中による勇ましい剣舞が町の伝統でした。その後久しく途絶えていましたが、平成6年、剣を扇に、男の子を女性に変え、装いも新たに詩舞を出場し、現在まで続いています。歴史はまだ新しいですが、純白の衣装とともに凛と舞う姿が大喝采を浴び、新大工町の奉納踊には欠かせないものになりました。「祝賀の詞」を晴れやかに奉納した後の所望踊では、一転勇ましく「坂本龍馬を想う」を舞い納めます。また、吟士も専門家だけでなく町内有志も日頃から研鑽に励んでおります。
町の名に因み、大工の腕の見せどころである華麗な装飾を施した曳壇尻を長年奉納し続けています。以前は数か町出場した記録がある壇尻も、今では我が町のみの出し物となりました。
現在の壇尻は昭和61年(1986)の新調、それまでの白木を漆塗りに変え、飾には紅葉、松、春日鳥居に白鹿一番をのせています。屋根飾りには松森神社にある職人尽しの彫刻を模した大工職人尽の彫刻があり、横飾り、土呂飾りの紅葉に流水、神鹿の彫刻も見ものです。
船との大きな違いは、舳先がなく、四角形であること。そのため、非常に回しにくいのですが、踊馬場では5回転半の大技に果敢に挑み、心意気を存分に示します。また、伝統に則り、右回ししか致しません。長采も白一色で、白采(しらざや)と呼びます。
更には船頭がいない代わりに、大太鼓、大鉦、小鉦、〆太鼓で構成する囃子方が、「式打ち」と呼ばれるお囃子の奉納を行います。 平成20年には春日大社の大神様の神話に因み、鹿を白鹿にするなど、伝統を大切にしながらも常に進化を続けています。